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ある呑んべいの独り言~薦めるお酒に寄せて~佐藤隆介

北翔若い頃、といっても四十代の十年間だが、縁があって池波正太郎の書生を務めた。残念ながらその間に小説で稼ぐ法を教わらなかったから、いまだに無名の物書きだ。
 しかし、「食べることと生きることは同義だ。真剣に飲み食いしていない奴は真剣に生きているとはいえない」という池波流の人生哲学だけは骨の髄まで叩き込まれた。
 池波正太郎から耳にタコができるほど聞かされたもう一つの台詞はこうだ。
「確実な死に向かって、確実に有限な時間を減らして行く。それが人の一生だ。しかも今日が最後の一日ではないという保証はだれにもない。だから今日というが大事なんだ。毎日その覚悟で飯を食え。毎日その覚悟で酒を飲め」
 毎晩、その亡師の言を思いつつ酒を飲む。これがおれの最後の一杯か・・・・・・と思いながら飲む酒はしみじみ身にしみてうまい。それだけにいい加減なその場しのぎの酒は決して飲むまいと心に決めている。
 そういう人間が、これも不思議というしかない御縁をいただいて、辰巳芳子に師事することになって数年になる。いわずと知れた鎌倉は浄明寺から全国津々浦々に目を光らせ、日本食文化のお目付け役として、明日の日本を守るべく檄を飛ばすコワーイバアサマである。世の中では料理研究家で通っているが、実は「食」を切り口として「生」の根源を追求し続けている希有の哲学者、と私は確信している。なればこそ七十をとっくに過ぎたこの齢で鎌倉へ通い、毎回、こっぴどく叱られてションボリしながら、それでもまだ、
(おれのトシで教えを乞う師があるとすれば辰巳芳子の他にはあり得ない・・・・・・)
 と、鎌倉通いを止めない。
 私が勝手に生涯最後の師匠と決めている辰巳芳子の数え切れないほどの著書の一節に、こんなくだりがある。
「いのちの目指すところは、生物としてのヒトが信・望・愛を秘めた人になること。ヒトが人になりうる条件は多々あるが、欠ければとり返しのつかぬ条件の一つに食は厳としてある。この確信を言葉にするための、親娘二代であったのだろうか」
 亡師・池波正太郎からは食べる現場での心得の数々を実地教育で学んだ。現師・辰巳芳子からは「人間にとって食べるとは何か」という根本的命題を一所懸命に学びつつある。これほど「師とのめぐり合い」で強運な男はまァ、おれしかいないだろうなァ・・・・・・と、つくづく思う。
 その強運を自画自賛しつつ気分よく一杯やっているところへ電話が鳴り、ヤレヤレ・・・・・いまごろだれだ・・・・・と思いながら受話器を取ると、何と鎌倉からである。
オーヘンリー「はい、先生、何でしょうか」
「あのねえ、今度うちでやってる茂仁香[モニカ]という全国優品取り次ぎ所で、お酒も扱ってよいという許可が下りたの。それでね・・・・・・」
「どんな酒がいいか、と・・・・・・」
「そうなの。前に佐藤さんに教わった稀代の麦焼酎O.Henrry(オー・ヘンリー)はどうしても茂仁香で扱いたいから、何とかしてくださいませ」
「わかりました。さっそく段取りします」
「だけど日本酒のことは、二、三種類は扱いたいと思うのだけれど、私には何をどう選んでよいやらわからないから、佐藤さん、全権を委任するからお願い・・・・・・」
「はい。私なりに何とかいたします」
 とは答えたものの、さて、どうしたものかと考えた。考えるまでもなく答えはすぐに出た。普段、自分がいいと思っている飲み方に従って、普段愛飲している酒をお勧めする。これしかない。
 日本酒は伝統的な「初添・仲添・留添」の三段仕込みが定法である。その古法に敬意を表し、飲み方も「添の酒」「仲の酒」「留の酒」の三段切り替えを実践している。
 添の酒とは食前酒で、これは香り華やかな大吟醸がいい。しかし大吟は自己主張の強い妾酒で、料理以上に出しゃばりたがる。長く飲んでいると飲み疲れする。だから干口子とか唐墨とか極上の珍味を肴に、食前にちょっとだけ味わうのがいい。
大吟醸越後流 さあ、これからしっかり食べるぞとなったら、仲の酒(食中酒)には味も香りも控えめで料理の引き立て役に徹した本醸造がいい。これを私は女房酒と呼んでいる。気心知れた女房酒なら毎日付き合って疲れない。
 留の酒は一応食事が終わった後の、文字通り「これで打ち止め」の挨拶のようなものだから、量は不要で、私の場合は添で飲った大吟を改めて一杯か純米吟醸を少々。近頃ではむしろ留の酒は日本酒ではなくO・ヘンリーという麦焼酎にぞっこんで、もっぱらこれをオンザロックで楽しんでいる。
 さて、添の酒・仲の酒・留の酒をそれぞれ別の蔵から探して取り寄せるというのも、それはそれで楽しい苦労で私も昔はそうしていたが、もう齢で面倒なことはしたくない。そこで付き合う蔵を越後村上の大洋酒造一つにしてしまった。この蔵とはすでに三十年の親交があり、私にとっては親戚も同然。毎晩、添の酒に「越後流」、仲の酒に「越乃松露」、留の酒に「北翔」があればご満悦である。あとはO・ヘンリーがあれば文句はない。呵々。

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~能登から掘り出した宝物の話~
もう十年以上前のこと、突然、藤澤隆信という男が拙亭へ現れた。提げてきた淡い琥珀色の酒があまりにうまかったので、ついつい長話を最後まで聞く羽目になってしまった。

 藤澤家は三重県四日市で江戸時代から代々穀物問屋を営んで参りました。父が七代目、私が八代目にあたります。初代・藤澤藤右衛門が家業を興したのは寛政八年(一七九六)と伝え聞いております。
 当家には先祖代々の家訓があり、それは、「兄弟にて同じ仕事するべからず」という戒めです。その家訓に従い、五代豊吉の弟・藤澤常吉は、繊維業に志を立て、一から始めてついに三重紡績を設立、大いに成功しました。後の東洋紡績の母胎で、常吉はいわば東洋紡績の創業者です。
 この藤澤常吉につながる末裔の一人を藤野公平といい、もともと、戦前は大陸科学院研究所でアルコールの研究を専門としていた人物です。藤野公平は戦後すぐ満州から生まれ故郷の能登へ帰り、日本醗酵化成株式会社を設立して、芋・麦・雑穀等から原料アルコールと合成酒の製造を始めます。そして昭和三十五年からは麦焼酎ひとすじの全力を傾注するようになりました。
 古文書によれば、能登は平安時代に大陸文化の一端として、蒸留酒の技術が初めて伝えられた場所とのこと。藤野公平がこの地で焼酎造りを始めたのも奇しき因縁という気がいたします。
 ことアルコールに関しては一家言を有する男だけに、藤野公平は単に安くて速く酔うだけの従来の焼酎を否定し、
「もろみ」を一年間寝かせた後に蒸留し、蒸留後最低十年以上熟成させるまでは、断じて世に出してはならぬ」
 これを不動のポリシーとしておりました。沖縄特産の泡盛には昔は二十年、三十年物の古酒[クース]もあったと聞き及びますが、いまはせいぜい五年か七年寝かせただけで古酒。また九州一円が本場とされる焼酎については、十年以上熟成の年代物はほとんど皆無。
 そういうことからいえば、「最低十年以上熟成させるまでは世に出すべからず」という公平の焼酎哲学は、この業界では前代未聞の非常識もはなはだしいことだったと申し上げてよいかと存じます。
 終始一貫、己の焼酎哲学を固守した藤野公平は十四年前、全財産を焼酎造りに投じた挙句、忽然と世を去りました。
 公平には三人の息子がありましたが、すでに三人とも親元を離れて独立し、それぞれにサラリーマンとして暮らしておりました。父公平の葬儀で久方振りに兄弟三人が珠洲に集まったところ、何と日本醗酵は会社更生法の適用を受けており、遺産といえば莫大な借金と珠洲の山中に林立する二百数十本のタンクだけ、とわかりました。
 タンクの中身は全部が麦焼酎で、その総量およそ四百五十万リットル。一番古いものは昭和三十五年仕込みの、いまでは「四十二年物」です。
 一時はただ呆然とするばかりだった藤野三兄弟は、それから営々と父の借金精算に務めた後、やがて次男と三男がサラリーマンを辞め、細々ながら焼酎販売を始めます。もとより素人商売、当初は経費分をまかなうのもやっとのことでした。
 それがいまではようやく家業といえる程度にはなりましたが、そうなると今度は何の設備もないことがネックです。一本一本、手詰めで一日どう頑張っても百本が限界。これではとても商売とはいえず、そこで中古の安い壜詰機はないものかと探し始めました。
 ここで急に話は変わりますが・・・・・・去年の五月、連休明けのこと、何夜か続けてあの藤澤常吉が私の夢枕に立ち、こういいました。
「いいか隆信。よく聞け。いま藤澤家で何とか自分の商売をしているのはお前だけだ。しっかりやれ!そのためには、まず、わしの写真を仏壇に飾れ!」
 ちょうど藤澤は創業以来最悪のドン底。何か思い切って新しい商売でも始めないことには・・・・・・と、私は日夜考え続けておりました。そこへ舞い込んできたのが「玉扇酒造を丸ごと買い取ってくれ」という話です。
 玉扇酒造は二百年前から広島で酒造りをしてきた歴史のある蔵ですが、時流から外れて極度の不振。それをアメリカの某大手清涼飲料メーカーが買収してはみたものの、たちまちもて余して即刻転売したい、目一杯安くするから何とか頼む・・・・・・。
 私はむろん酒造りには門外漢ですが、かなりの土地と設備一式がある蔵、切り売りするだけでもまァ元は取れるだろうと、一年休業中の玉扇酒造を買い取りました。ご承知の通り日本酒の業界はお先真っ闇。こんな時代に一度つぶれた蔵を買い取るなど到底正気の沙汰ではなく、あれは常吉が私に乗り移ってさせたことに違いありません。
 で、半ば死に体の穀物問屋の末裔が思いもかけず造り酒屋の蔵元になり、とりあえず設備を売りに出したところへ、「壜詰機を買いたいが・・・・・」と、やって来たのが能登の日本醗酵の藤野兄弟です。
 こうして五十年振りに一族の再会となりました。いや本当に驚きました。思えばこれも常吉が仏壇の奥からひそかに手を回して仕組んだことに違いありません。
 まさに奇跡的な一族の再会でしたが、日本醗酵には酒はあるが金はない。私の玉扇酒造には設備はあるが売る酒がない。そこで、玉扇の壜詰設備を日本醗酵に売り渡し、その代金は現物すなわち焼酎で決済ー要するに、物々交換ということになりました。
 ま、そういうわけで、私といたしましては何が何でも能登の山中に眠っていた時代物の焼酎を売らなければならないのです。虎魚先生、何とかして頂けないでしょうか・・・・・・。
 
 まるで嘘みたいな話だが、これは全て本当のことである。こんな話は、もしあるとすれば多分O・ヘンリーの小説の世界ぐらいだろうな・・・・・と、そのとき思った。だから、この酒に新しい名前をつけてくれといわれたとき、迷わず「O・ヘンリー」と答えた。
 私ごとき老書生には無理だが、もし、いまここにウイリアム・シドニー・ポーター(これが偉大な短篇作家の本名である)がいて、この話を聞いていたら、間違いなくあの有名な『賢者の贈りもの』や『最後の一葉』にも負けない名作を書いたに違いない。
 まことに残念ながら私は酒徒としても所詮小物で、気持ちよく酔えばところ構わず寝てしまう他愛ない飲み助。それでもとにかく酒好きだから、素面でいきなり飯を食うことはあり得ず、朝酒、昼酒、晩酌を欠かさず、必ず寝酒もやる。
 飲む酒は食いものに合わせて、その都度、日本酒だったり、麦酒だったり、あるいはワイン、紹興酒、ジン、モルトウイスキー。だが、これまで私の生活に焼酎はなかった。それがいまやO・ヘンリーなしではいられないのだから、自分でも驚いている。
 十五年熟成・二十八度のO・ヘンリーはオンザロックでやると快い香りが決して料理以上に出しゃばることなく、氷が溶けるに従ってアルコール度数は麦酒と大差なくなってくるから、私でさえスイスイ飲める。
 さる酒の名人に一本献上して批評を乞うたところ、翌々日に返事がきて、いわく、「一晩じっくり試した。ストレート、オンザロック、お湯割り、ぬる燗できいた結果は、驚くばかりに“丸くなったアルコールの厚みのある味”に瞠目。小生、大の日本酒好きでこれまで焼酎の味は寂しくてつまらないと思っていたが、これは焼酎とはまったく別物。ついでにもう一ついえば、今朝目覚めたときの爽快さも格別。凄い酒だ」
 かく太鼓判を押してもらって、私の舌もまんざらではないと、すっかり自信がついた。和食一般から鮨、蕎麦、天ぷらはいうに及ばず、イタリアンからフレンチ、さらには中華料理にもその相性に間然する所なく、これほど懐の広い酒はまず他にない。
 法規上の分類では焼酎だが、私の実感ではO・ヘンリーは焼酎の既成概念をはるかに超えている。“Matured Spirit of Japan”として世界に誇るべき新しい日本の酒である。
「それにしても藤澤くん。いくら藤野公平の遺言とはいえ、よくまァ最低十年熟成のポリシーを守って売らずに辛抱したものだな」
「いや、それはですね、その・・・・・・」
「何だい」
「実を申しますと藤野公平は、県会議員を四期務めた末に、晩年、参議院選挙に打って出まして」
「ほう、それで?」
「それで大変な借金をこしらえ、落選した上に全財産を差し押えられまして、会社も休眠状態に・・・・・・」
「そうか。だから焼酎を売りたくても、売ることもできなかったわけだ」
「はい。二百数十本のタンク全部に“赤札”が貼られておりましたので」
「ということは、つまり、藤野公平が遺したこの焼酎の熟成年数は・・・・・・」
「はい。税務署の保証付き、です」



佐藤隆介氏プロフィール
1936年東京生まれ。雑文製造処「鉢山亭」主人。
広告代理店のコピーライターを経て、池波正太郎の書生をつとめ、酒・食・器の「食卓に関わるもの」のみにテーマを絞り文筆活動を営む。
著書に「池波正太郎指南 食堂楽の作法」「池波正太郎の愛した味」などがある。