辰巳芳子オフィシャルサイト*茂仁香

能登から掘り出した宝物の話

もう十年以上前のこと、突然、藤澤隆信という男が拙亭へ現れた。提げてきた淡い琥珀色の酒があまりにうまかったので、ついつい長話を最後まで聞く羽目になってしまった。

 藤澤家は三重県四日市で江戸時代から代々穀物問屋を営んで参りました。父が七代目、私が八代目にあたります。初代・藤澤藤右衛門が家業を興したのは寛政八年(一七九六)と伝え聞いております。
 当家には先祖代々の家訓があり、それは、「兄弟にて同じ仕事するべからず」という戒めです。その家訓に従い、五代豊吉の弟・藤澤常吉は、繊維業に志を立て、一から始めてついに三重紡績を設立、大いに成功しました。後の東洋紡績の母胎で、常吉はいわば東洋紡績の創業者です。
 この藤澤常吉につながる末裔の一人を藤野公平といい、もともと、戦前は大陸科学院研究所でアルコールの研究を専門としていた人物です。藤野公平は戦後すぐ満州から生まれ故郷の能登へ帰り、日本醗酵化成株式会社を設立して、芋・麦・雑穀等から原料アルコールと合成酒の製造を始めます。そして昭和三十五年からは麦焼酎ひとすじの全力を傾注するようになりました。
 古文書によれば、能登は平安時代に大陸文化の一端として、蒸留酒の技術が初めて伝えられた場所とのこと。藤野公平がこの地で焼酎造りを始めたのも奇しき因縁という気がいたします。
 ことアルコールに関しては一家言を有する男だけに、藤野公平は単に安くて速く酔うだけの従来の焼酎を否定し、
もろみを一年間寝かせた後に蒸留し、蒸留後最低十年以上熟成させるまでは、断じて世に出してはならぬ」
 これを不動のポリシーとしておりました。沖縄特産の泡盛には昔は二十年、三十年物の古酒[クース]もあったと聞き及びますが、いまはせいぜい五年か七年寝かせただけで古酒。また九州一円が本場とされる焼酎については、十年以上熟成の年代物はほとんど皆無。
 そういうことからいえば、「最低十年以上熟成させるまでは世に出すべからず」という公平の焼酎哲学は、この業界では前代未聞の非常識もはなはだしいことだったと申し上げてよいかと存じます。
 終始一貫、己の焼酎哲学を固守した藤野公平は十四年前、全財産を焼酎造りに投じた挙句、忽然と世を去りました。
 公平には三人の息子がありましたが、すでに三人とも親元を離れて独立し、それぞれにサラリーマンとして暮らしておりました。父公平の葬儀で久方振りに兄弟三人が珠洲に集まったところ、何と日本醗酵は会社更生法の適用を受けており、遺産といえば莫大な借金と珠洲の山中に林立する二百数十本のタンクだけ、とわかりました。
 タンクの中身は全部が麦焼酎で、その総量およそ四百五十万リットル。一番古いものは昭和三十五年仕込みの、いまでは「四十二年物」です。
 一時はただ呆然とするばかりだった藤野三兄弟は、それから営々と父の借金精算に務めた後、やがて次男と三男がサラリーマンを辞め、細々ながら焼酎販売を始めます。もとより素人商売、当初は経費分をまかなうのもやっとのことでした。
 それがいまではようやく家業といえる程度にはなりましたが、そうなると今度は何の設備もないことがネックです。一本一本、手詰めで一日どう頑張っても百本が限界。これではとても商売とはいえず、そこで中古の安い壜詰機はないものかと探し始めました。
 ここで急に話は変わりますが・・・・・・去年の五月、連休明けのこと、何夜か続けてあの藤澤常吉が私の夢枕に立ち、こういいました。
「いいか隆信。よく聞け。いま藤澤家で何とか自分の商売をしているのはお前だけだ。しっかりやれ!そのためには、まず、わしの写真を仏壇に飾れ!」
 ちょうど藤澤は創業以来最悪のドン底。何か思い切って新しい商売でも始めないことには・・・・・・と、私は日夜考え続けておりました。そこへ舞い込んできたのが「玉扇酒造を丸ごと買い取ってくれ」という話です。
 玉扇酒造は二百年前から広島で酒造りをしてきた歴史のある蔵ですが、時流から外れて極度の不振。それをアメリカの某大手清涼飲料メーカーが買収してはみたものの、たちまちもて余して即刻転売したい、目一杯安くするから何とか頼む・・・・・・。
 私はむろん酒造りには門外漢ですが、かなりの土地と設備一式がある蔵、切り売りするだけでもまァ元は取れるだろうと、一年休業中の玉扇酒造を買い取りました。ご承知の通り日本酒の業界はお先真っ闇。こんな時代に一度つぶれた蔵を買い取るなど到底正気の沙汰ではなく、あれは常吉が私に乗り移ってさせたことに違いありません。
 で、半ば死に体の穀物問屋の末裔が思いもかけず造り酒屋の蔵元になり、とりあえず設備を売りに出したところへ、「壜詰機を買いたいが・・・・・」と、やって来たのが能登の日本醗酵の藤野兄弟です。
 こうして五十年振りに一族の再会となりました。いや本当に驚きました。思えばこれも常吉が仏壇の奥からひそかに手を回して仕組んだことに違いありません。
 まさに奇跡的な一族の再会でしたが、日本醗酵には酒はあるが金はない。私の玉扇酒造には設備はあるが売る酒がない。そこで、玉扇の壜詰設備を日本醗酵に売り渡し、その代金は現物すなわち焼酎で決済ー要するに、物々交換ということになりました。
 ま、そういうわけで、私といたしましては何が何でも能登の山中に眠っていた時代物の焼酎を売らなければならないのです。虎魚先生、何とかして頂けないでしょうか・・・・・・。
 
 まるで嘘みたいな話だが、これは全て本当のことである。こんな話は、もしあるとすれば多分O・ヘンリーの小説の世界ぐらいだろうな・・・・・と、そのとき思った。だから、この酒に新しい名前をつけてくれといわれたとき、迷わず「O・ヘンリー」と答えた。
 私ごとき老書生には無理だが、もし、いまここにウイリアム・シドニー・ポーター(これが偉大な短篇作家の本名である)がいて、この話を聞いていたら、間違いなくあの有名な『賢者の贈りもの』や『最後の一葉』にも負けない名作を書いたに違いない。
 まことに残念ながら私は酒徒としても所詮小物で、気持ちよく酔えばところ構わず寝てしまう他愛ない飲み助。それでもとにかく酒好きだから、素面でいきなり飯を食うことはあり得ず、朝酒、昼酒、晩酌を欠かさず、必ず寝酒もやる。
 飲む酒は食いものに合わせて、その都度、日本酒だったり、麦酒だったり、あるいはワイン、紹興酒、ジン、モルトウイスキー。だが、これまで私の生活に焼酎はなかった。それがいまやO・ヘンリーなしではいられないのだから、自分でも驚いている。
 十五年熟成・二十八度のO・ヘンリーはオンザロックでやると快い香りが決して料理以上に出しゃばることなく、氷が溶けるに従ってアルコール度数は麦酒と大差なくなってくるから、私でさえスイスイ飲める。
 さる酒の名人に一本献上して批評を乞うたところ、翌々日に返事がきて、いわく、「一晩じっくり試した。ストレート、オンザロック、お湯割り、ぬる燗できいた結果は、驚くばかりに“丸くなったアルコールの厚みのある味”に瞠目。小生、大の日本酒好きでこれまで焼酎の味は寂しくてつまらないと思っていたが、これは焼酎とはまったく別物。ついでにもう一ついえば、今朝目覚めたときの爽快さも格別。凄い酒だ」
 かく太鼓判を押してもらって、私の舌もまんざらではないと、すっかり自信がついた。和食一般から鮨、蕎麦、天ぷらはいうに及ばず、イタリアンからフレンチ、さらには中華料理にもその相性に間然する所なく、これほど懐の広い酒はまず他にない。
 法規上の分類では焼酎だが、私の実感ではO・ヘンリーは焼酎の既成概念をはるかに超えている。“Matured Spirit of Japan”として世界に誇るべき新しい日本の酒である。
「それにしても藤澤くん。いくら藤野公平の遺言とはいえ、よくまァ最低十年熟成のポリシーを守って売らずに辛抱したものだな」
「いや、それはですね、その・・・・・・」
「何だい」
「実を申しますと藤野公平は、県会議員を四期務めた末に、晩年、参議院選挙に打って出まして」
「ほう、それで?」
「それで大変な借金をこしらえ、落選した上に全財産を差し押えられまして、会社も休眠状態に・・・・・・」
「そうか。だから焼酎を売りたくても、売ることもできなかったわけだ」
「はい。二百数十本のタンク全部に“赤札”が貼られておりましたので」
「ということは、つまり、藤野公平が遺したこの焼酎の熟成年数は・・・・・・」
「はい。税務署の保証付き、です」






































































































































































































































































































































































































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